「呼ばれた」「呼ばれる」について思うこと

セッションでも講座でも、よく耳にする言葉に、「神様に呼ばれた気がする」「この神社(場所)に呼ばれたみたい」というのがあります。

そんなふうに感じることって、皆さんもあるのではないでしょうか?

不思議なタイミングや流れで導かれるように訪れる場所には、やっぱり何かご縁があるのかもしれないなと私も思います。

そして、そんなお話を聞いていると、私まで嬉しい気持ちになります。

けれど私は、この「呼ばれる」という言葉を、自分からはあまり使わないようにしています。


それには理由があります。


この「呼ばれる」という感覚を覚えたときに、ちょっと立ち止まってみることも大切なのではないかなと思うのです。

というのも、もしかしたら、「自分は呼ばれるに値する人間なのかもしれない」と、無意識のうちに思ってしまうことがあるかもしれないからです。

このような感覚はときに、謙虚さを忘れがちになり、知らぬ間に傲慢さが現れたり、本質を見る目が曇ってしまう恐れがあると思うのです。


本当に大切なのは、呼ばれたかどうかよりも、「今、私が気付くべきことはなんだろう?」「私がこの場所に惹かれる理由とは?」「どんなつながりがあるのだろう?」そんなふうに、自分の内側に静かに問いかけてみることなのではないかなと思います。


ご縁があって訪れた場所には、きっと何か意味があって、私たちを迎えてくれているのだと思います。

だからこそ、どんなときも感謝と敬意をもって、その場所に、その歴史に、物語に、自分の心の状態に、耳を傾けてみることが大切ではないかなと思うのです。


「呼ばれた」と思えることがあっても、それを誇るのではなく、ただ静かに受けとめること。

「気付きを与えていただいた」「聴かせていただく」「学ばせていただく」という謙虚な気持ちでいると、神様や様々なスピリット達との対話の扉が、ふと開いてくれるような気がしています。

これは、シンクロやその他の神秘的な体験についても同じことが言えると思います。


「運を引き寄せる」「パワーをもらう」「パワースポット」「強運体質」

そんな言葉が並ぶとき、心がふわっと浮ついてしまうことがあります。

でも私は、目には見えなくても確かにある「本質」や「真実」を大切にしていきたいと思っています。

この場所、この瞬間に、自分の内側から湧き上がるもの。

私はその内なる感覚のひとつを「賢者の石」と呼んでいますが、それに気づくための、静かで澄んだ心と精神を忘れずにいたいですね。


目の前の言葉や出来事に一喜一憂するのではなく、その奥にある本質を見極める知性を共に育てていけたら…そう思います。


感情に流されず淡々と日々を重ねていくことは、決して冷たいことでも鈍感になることでもなく、穏やかな波を保ちながら様々な物事を客観的に見つめることだと私は考えます。


何事もバランスを大切にしながら、ありふれた日常の中にも「気づき」「感じる」ことができたらいいですね。


私はこれからも、毎日が学びの旅だと捉えて過ごしていきたいと思います。


今日もいい一日でありますように🍀